大野ジョーと行く!古代山城大野城
更新日:2023年11月06日
大野城がつくられたきっかけは、663年、朝鮮半島の南部にあった百済(くだら)という国を助けるために送られた日本の軍勢が、白村江(はくすきのえ)という所で唐(とう)・新羅(しらぎ)の連合軍と戦い、大敗北したことにはじまります。これに驚いた日本ではすぐにも唐・新羅軍の来襲があると考え、敗戦後数年のうちに各地に城を築き、防人(さきもり)を配置し、全国的な防衛体制を整えました。大野城もそれにともなって665年、佐賀県基山町にある基肄城(きいじょう)とともに九州の政務をつかさどる大宰府を中心とする防衛システムの一環として造られました。
今現在、大野城に当時の建物は残っていませんが、古代の山城の姿をほうふつとさせる見所がたくさん残っています。
平成27年(2015年)、築造1350年を迎えた古代山城大野城を、PRキャラクターである大野ジョーくんと一緒に巡ってみましょう。
- 正門!太宰府口城門
(広報「大野城」 平成27年4月15日号掲載) - 焼米!見つけられるかな?
(広報「大野城」 平成27年5月15日号掲載) - ふしぎ!水がなくならない鏡池
(広報「大野城」 平成27年6月15日号掲載) - 大きいジョー!大石垣
(広報「大野城」 平成27年7月15日号掲載) - けいさしの井戸
(広報「大野城」 平成27年8月15日号掲載) - いにしえを今に伝える毘沙門堂(びしゃもんどう)
(広報「大野城」 平成27年9月15日号掲載) - 大野城最大の守り 百間石垣と宇美口城門
(広報「大野城」 平成27年10月15日号掲載) - 大野城跡をめぐるスポット! 県民の森センター
(広報「大野城」 平成27年11月15日号掲載) - 大野城跡1350年
正門!太宰府口城門
太宰府口城門は、大野城跡の南側にあります。発掘調査が行われ、2回建てかえられていることが分かりました。
初めは、地面を掘って柱を立て込む掘立柱式の城門でしたが、次の段階には礎石の上に柱を据える礎石式に変わり、さらに門の幅も狭くしています。今、現地に残されているのは最後の段階の門の姿で、2階建ての楼門と考えられています。門の幅は約5メートルで、大野城跡の中では最も大きな門です。
また、発掘調査では最初の掘立柱段階の門の柱が見つかりました。年輪で年代を判定する方法で調べてみたところ、648年以降に木が切られたことが分かりました。これは、『日本書紀』で出てくる大野城の築造年代に近いのですが、10年ほどさかのぼることから、その意味が論議されています。
ここが太宰府口城門だじょー!意外と広いじょー!
これが礎石で石を彫りこんでいるじょー
焼米!見つけられるかな?
尾花礎石群は、太宰府口城門を入って右側に上がり、途中、見晴らしのいい土塁の上を通っていくと礎石群の看板があり、その奥にあります。
狭い山の尾根を平坦に整形し、礎石建物が10棟建てられています。建物はいずれも3×5間と同じ大きさで、20坪くらいの広さがあります。
この尾花礎石群の周りからは、とてもめずらしいものが見つかります。それは、黒く炭化した焼米です。このため、ここは焼米ヶ原と呼ばれています。これは、礎石建物に米が収められていたとも推測できる手がかりになり、とても大切なものです。
焼米を見つけたじょー!
尾花礎石群近くの土塁からの眺め。 この山が基肄城だじょー!
3×5間の建物のイメージ間は建物の大きさを表し、柱と柱の間を数え、3×5間なら柱が4本と6本あります。
ふしぎ!水がなくならない鏡池
戦いのためにつくられた大野城跡では、たてこもるときに必要な水を得る場所が、いくつか見つかっています。
鏡池は、増長天礎石群のすぐ近くにあります。山の斜面に土を盛り、円形の土手が作られています。大きなすり鉢状になっていて、水面の広さはおよそ5から7メートルあります。深さは5メートルほどあるとも言われていますが、最近はだいぶ土がたまっているようです。
雨ごいのために、鏡を投げ入れたとか、池の中に沈んでいる鏡を取り出して祈ったとの伝説があり、名前の由来にもなっています。
どんな日照りでも水がなくなることはない鏡池。山の高さが300メートルくらいある場所なのに、なぜ水がたまっているのか。
大野城跡には、まだまだ分からないことがたくさんあります。
礎石にすわって一休み
増長天礎石群は、発掘してたじょー!
鏡池だじょー!飛びこんじゃダメだじょー
大きいジョー!大石垣
大野城跡は、城の周りを土塁と石垣で取り囲んでいます。総延長は8キロメートルにもおよび、大部分は土塁になりますが、谷にあたる部分は石垣を積み上げ、敵の侵入に備えていました。 大石垣は、大野城跡の中で百間石垣に次いで大きな石垣で、高さは6メートルほどあります。全長は、鏡山猛さんの書いた『大宰府都城の研究』では 64メートルあったとされ、大規模な石垣であったことが分かります。
昭和48年、大石垣は集中豪雨によって一部の石垣が崩落してしまいました。壊れた箇所は昭和50年に復元していましたが、平成15年に大野城跡を襲った大規模な豪雨によって土石流が発生し、石垣の大部分が流されてしまいました。
一時は復旧も危ぶまれましたが、平成17年度までの3年にわたって太宰府市により復旧工事が行われました。何度も修理を行い、守り伝えられてきた大野城跡。新しく積みなおされた大石垣は白く輝いており、築城当時の姿をほうふつとさせます。
しっかり積み直されて、とっても安心だじよー
復旧工事で積み直された新しい石は白く輝いて見えるじょー
けいさしの井戸
けいさしの井戸は、水城口城門の近くにあります。
鏡池と同じく、周りに土を盛り上げて、すり鉢状にくぼんだところに井戸が造られています。
今は石組みの井戸ですが、これは鎌倉時代以降に補修されたものと考えられています。
昭和34年、鏡山猛さん・小田富士雄さんにより石組みの井戸が調査されました。直径は約52センチ、深さ約164センチ、底の直径約73センチ、井戸の底は丸太を組み合わせ、底は板敷きであったそうです。
今は、井戸の中は落ち葉で埋まっていますが、以前は水がたまっていました。
ところで、江戸時代の地誌には、けいさしの井戸は独鈷水とか広目天の井と書かれています。どちらも仏教に関わる言葉です。現在、使われている「けいさし」という言葉の意味はよく分かっていません。いったいどんな意味があるのか?なぞは深まります。
構造
現地写真
水城口城門からちょっと上がったところにあるじょー
いにしえを今に伝える毘沙門堂(びしゃもんどう)
毘沙門堂は、大野城跡の最高所である大城山山頂のすぐ近くにあります。
ここでは、正月3日の早朝から「毘沙門参り」が行われます。
毘沙門参りは、近隣から参拝のため登って来た人が、お堂の前に置かれたさい銭を借りて帰り、その翌年、前の年に借りた倍の額を返し、また新しくさい銭を借りて帰ることです。このお参りを繰り返すことで、1年間お金に不自由しないといわれています。
このお参りは、江戸時代の終わりごろに始まったとされ、宇美町の民俗文化財に指定されています。
毘沙門は仏教の四天王に由来する言葉です。大野城には、宝亀五年(774年)に四王院(四天王寺)が建てられ、毘沙門天・増長天・広目天・持国天が祀られていました。また、大野城跡のある山としてよく使われる四王寺山の名も、この四王院に関連するものです。毘沙門堂の近くで行われた発掘調査では、寺院に関する遺物が出土しています。
では、毘沙門堂も古代の四王院と関連があるのか。また、毘沙門天を祀った四王院の建物がこの近くにあったのか。謎は深まるばかりです。
大野城跡の最高所!大城山は標高410メートル!!
奥の建物が毘沙門堂だじょー
大野城最大の守り 百間石垣と宇美口城門
宇美町から四王寺山に向かう林道を上がると、右側に大きな石垣があります。これが、大野城跡最大の石垣、百間石垣です。今は林道によって断ち切られていますが、反対側にも石垣が伸び、長さは150メートル以上あります。
石垣は、いくつかの谷と尾根をまたぐように築かれ、さまざまな大きさの石を積み上げています。
石は山肌を削り、岩盤にもたせかけるように積まれています。また、石の向きを交互に変えたり、奥行きの長い石を部分的に使ったりするなど、石積みの工夫がされていました。
また、林道のあたりには、城門があったと考えられています。昭和47年の復旧工事の際に、石垣の下を流れる四王寺川の中から、門の礎石が見つかりました。このほか2つの礎石が見つかっており、掘立柱式から礎石式に建てかえられたと考えられています。
宇美口城門の礎石は、県民の森センターと宇美町立歴史民俗資料館にあるじょー!
百間石垣は北の要だじょー!
こが百間石垣!僕の髪形も石垣をモチーフにしているんだじょー!
大野城跡をめぐるスポット! 県民の森センター
前回紹介した百間石垣を後に、さらに林道を上っていくと、県民の森センターがあります。
四王寺県民の森は昭和 51年にオープンし、大野城市、太宰府市、宇美町にまたがる四王寺山の約342ヘクタールの範囲にわたります。豊かな森林におおわれ、春の花、初夏の緑、秋の紅葉や野鳥など、森の四季を感じ楽しむことができ、森林について学べる展示館も併設されています。
ここは、広い駐車場があることから、大野城を散策する拠点としてよく使われています。
また、展示館の下のピロティには大野城を分かりやすく描いたイラストがあります。土塁を積み上げていたり、建物が建っていたり、防人の姿が描かれるなど、古代の大野城の姿を大変分かりやすく伝えています。散策や森林ウオーキングのときに、ぜひ一度訪れてください。
城門や建物
土塁を積んでいる様子
イラストは壁にかけられているじょー
大野城跡1350年
いまもかも 大城の山にほととぎす なきとよむらむ 吾なけれども 坂上郎女(さかのうえのいらつめ)『万葉集』 巻8大野ジョーくんの写真(調査はこれからも続くじょー)奈良時代、大宰府政庁の後ろに ある大野山(大城山)に大野城があることが知られていました。
774年には、四王院が置かれ、さまざまな文献にその活動が記されていますが、大野城の中にあった建物や城門の様子を伝える記録はありません。大野城が城跡として認識 され、具体的な建物や城門の姿が明らかになってくるのは江戸時代以降のことです。
江戸時代中ごろの『筑前国続風土記』や『筑前国続風土記附録』では、礎石や井戸といった遺構が、大野城跡に関するものか四王寺に関するものかよく分かっていなかった ようです。
ところが、『太宰府旧蹟全図北』には、大野城跡・基肄城跡が絵図として詳しく描かれており、石垣や門跡などの場所や規模がよく分かります。
また、江戸時代の終わりごろから明治時代には、大城山が四王寺山と呼ばれるようになった由来が明らかにされ、大野城跡と四王寺の関係について理解が深まっていきます 。さらに、このころになると、大野城跡に残る石垣などの遺構に目が向けられるようになりました。
大正時代に入ると、大野城跡の現地踏査に基づく城壁や門の調査が島田寅次郎氏、長沼賢海氏により行われます。
さらに、昭和の初めには、鏡山猛氏により土塁や百間石垣・小石垣などが実測され、具体的な構造を明らかにし、それ以降の調査研究に対する基礎となりました。
このように、江戸・明治時代にわたって続いていた大野城跡に対する興味は、城としての全体的な把握へと進んでいきました。さらに、石垣や城門などの調査・研究が進み 、大野城跡の姿が徐々に明らかにされてきています。
大野城は古代に造られた山城です。城というと大阪城のような巨大な天守閣や石垣をイメージされるかもしれませんが、古代の山城は山を鉢巻状(すりばちじょう) に土塁や石垣で取り囲み、内部に建物を配置する構造であるために、後世の人が山城を見上げてもただの山にしか見えません。
しかし、歩いてみるとそこには建物や井戸や 石垣など、確かに古代の城の遺構が残されています。国家の危機に直面した古代の人が、持てる技術を結集して作り上げた堅固な城です。
ぜひ一度現地へお越しになり、大野城の巨大さと古代の技術のすばらしさと自然の豊かさを体験してみてはいかがでしょうか。