日本遺産について
更新日:2023年06月13日
- 日本遺産とは
- 日本遺産 古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~
- 大野城市内の構成文化財
水城跡周辺・大野城跡周辺・牛頸須恵器窯跡
日本遺産とは?
日本遺産(Japan Heritage)は、地域の歴史的魅力や特性を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するものです。
平成27 年に太宰府市が認定を受けた「古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~」が、令和2 年に拡充されました。その範囲は、大野城市、筑紫野市、春日市、那珂川市、宇美町、佐賀県基山町に広がり、計30 件の構成文化財でストーリーが構成されています。
古代日本の「西の都」~東アジアとの交流拠点~
ストーリー概要
大宰府政庁を中心としたこの地域は、東アジアからの文化、宗教、政治、人などが流入・集積するのみならず、古代日本にとって東アジアとの外交、軍事拠点でもあり、軍事施設や都市機能を建設するのに地の利を活かした理想の場所であった。現在においても大宰府跡とその周辺景観は当時の面影を残し、宗教施設、迎賓施設、直線的な道や碁盤目の地割跡は、1300年前の古代国際都市「西の都」を現代において体感できる場所である。
大野城市内の構成文化財 水城跡周辺
水城跡(国特別史跡)
約1350 年前の白村江の敗戦に際し、日本を守るため築かれた防衛施設。水を貯えた濠と土塁からなり、今も長さ1.2 kmもの巨大な土塁を目にすることができる。百済の都・扶余の東羅城(城壁)と同じ築造技術が採用されている。のちに大宰府の出入口となり、外国使節や都からの官人らを迎え、数々の物語が残される。
水城跡(現在の西門の様子)
御笠の森(市有形民俗文化財・市天然記念物)
「梅花宴」にも出席した大宰大監・大伴百代が詠んだ「念はぬを思ふといはば大野なる 御笠の森の神し知らさむ」の歌は、万葉集にも載る。百代が坂上郎女に送った恋の歌として知られるが、街中に茂る森と、その背後に聳える大野城は、万葉の姿を今にとどめている。
大野城市内の構成文化財 大野城跡周辺
大野城跡(国特別史跡)
1350 年前、百済から亡命した貴族らとともに自然地形を生かし築造された古代山城。百済の都・扶余の扶蘇山城との関係が注目され、水城等とともに古代都城の姿を今に伝える。ここから筑紫地域を一望でき、遠く玄界灘も望むことができる。
善一田古墳群(市史跡)
6 世紀後半から7 世紀後半にかけての約100 年間にわたり築造された古墳群である。新羅土器や「奈」の字をヘラ書きした須恵器が出土するなど、多様な先進文化・文物の交流がうかがえる。周辺の古墳群からも新羅土器がまとまって出土し、国際交流都市「西の都」は、こうした前代からの盛んな対外交流という素地の上に成り立っていた。
大野城市内の構成文化財 牛頸須恵器窯跡
牛頸須恵器窯跡(国史跡)
6 世紀中ごろから9 世紀にかけて操業した西日本最大の須恵器生産地で、大野城市を中心に分布し、一部春日市や太宰府市にまで広範囲に及ぶ。奈良時代から平安時代前期にかけて「大宰府の食器」を生産し、官人層から一般庶民まで広く当時の食文化を支えた。
牛頸須恵器窯跡出土ヘラ書き須恵器(県有形文化財・美術工芸品)
牛頸須恵器窯跡からは「和銅六年」や「調」とヘラ書きされた甕片が多く出土する。10 世紀前半に完成した『延喜式』には筑前国が納める税「調」の品目として大甕・小甕が記され、ヘラ書き須恵器はこの記載を裏付けるとともに、牛頸須恵器窯跡が「西の都」だけではなく平城京も支えていたことを示す。