大野城市の遺跡 Aエリア
更新日:2023年09月27日
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1.仲島本間尺遺跡 | |
2.仲島遺跡 | 仲島遺跡1 仲島遺跡2 |
3.川原遺跡 | |
4.御笠の森遺跡 | 御笠の森遺跡 |
5.宝松遺跡 | |
6.村上遺跡 |
村下遺跡1 |
7.雑餉隈遺跡 |
雑餉隈(ざっしょのくま)遺跡 |
8.持田ヶ浦古墳群 | |
9.御陵遺跡 | 御陵(ごりょう)古墳群1 |
御陵前ノ椽(ごりょうまえのえん)遺跡 | |
10.御陵脇遺跡 | |
11.塚口遺跡 | |
21.ヒケシマ遺跡 | |
51.大正町遺跡 | |
52.京塚遺跡 | |
53.錦町遺跡 | |
54.原遺跡 | |
55.松ノ木遺跡 |
仲島遺跡(仲畑地区周辺)
- 弥生時代の仲島遺跡
- 弥生時代にまつわる出土品
貨布
鏡の破片
青銅の矢じり
青銅製鋤先
銅矛の鋳型の一部 - 古墳時代の仲島遺跡
- 古墳時代にまつわる出土品
子持勾玉
刀子を模造したと考えられる石製模造品
土製勾玉
土製模造鏡 - 他の時代にまつわる出土品
人面墨書土器
弥生時代の仲島遺跡
弥生時代はじめ頃の遺跡は、朝鮮半島に近いという地理的な条件から、玄界灘沿岸で多く見つかっています。大野城市に隣接する福岡市博多区に、板付遺跡という有名な弥生時代最古の村の一つがあります。この板付遺跡から南東に2km離れた場所に仲島遺跡があります。この遺跡がある場所は区画整理が行われ、工場が立ち並んでいたり水田や畑があったりと、表面から見る限り遺跡がある場所には思えないかもしれません。
時代的にみると、弥生時代中期の初めから奈良時代(約2100年前~1200年前)にかけての集落です。
下の図の赤線で囲った部分が遺跡全体のおおよその範囲で、半透明の赤い部分が弥生時代の遺構(いこう)が見つかった所です。弥生時代の遺構からは、弥生土器、石器、青銅器などが発見されました。
第10回 地名のはじまり探検隊 ~中~
(仲島遺跡部分6:41~)
弥生時代にまつわる出土品【仲島遺跡】
貨布(かふ)
中国に『前漢(ぜんかん)』という国がありましたが、紀元8年に『王莽(おうもう)』という人物がクーデターを起こし、『新(しん)』という国を建てました。王莽は数十種類の貨幣を発行し、貨布はその一種です。
貨布の大きさは、長さ約5.8cm、厚さは1~2mmの間です。篆書(てんしょ)という字体で、向かって右側に「貨」、左側に「布」の字があるので貨布と呼びます。
弥生時代の日本にはまだお金を使う制度はなく、装飾品か威厳のシンボルとして扱われていたと思われます。
鏡の破片
本来は円形で、直径を復元すると8~9cmになります。山形の文様と小さな櫛の歯のような文様が見えますが、この面は鏡の裏面です。表の面は物を写し出すために平らになっています。この鏡は『新』を滅ぼした中国の『後漢(ごかん)』という国で作られたものだと考えられます。
【参考】大きさと文様が似ている中国の出土品(鏡)
青銅の鏃(やじり)
銅質が悪いため、表面はかなりはげています。長さは約2cmです。九州の鏃は石製か鉄製のものが多く、青銅製の鏃は珍しいものです。実用品(狩りや戦闘に使われたもの)だったのかはわかりません。
青銅の鋤先
本来はU字型に近かったものが、壊れて破片になったものです。鋤は穴掘りの道具ですが、木製の本体に銅鋤先をつけて特別な儀式のために用いられたと考えられています。長さは約5cmです。
銅矛の鋳型の一部
銅矛は下の図のような形をした青銅器で、2つ組み合わせた鋳型の中に溶かした銅を流し込んで作ります。この鋳型は砥石として再利用され、擦り減って小さくなっているのではっきりとどの部分に当たるかが分かりません。銅矛は朝鮮半島から伝わった武器ですが、日本では祭りの道具として独特な使い方をするようになりました。
古墳時代の仲島遺跡
仲島遺跡で見つかっている古墳時代の主な遺構には、竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)、掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)、溝などがあります。また、古墳時代という時代を特徴づけている当時の有力者の古墳は見つかっていません。
下の写真は、仲島遺跡の南端で見つかった竪穴住居跡(右側の四角い掘り込み)と、掘立柱建物跡2棟(左の丸い穴)です。どちらも古墳時代後期(6世紀後半ごろ)のものです。
竪穴住居跡の床面には4つの丸い穴が見られます。これは柱が建てられていた穴(柱穴)で、4本の柱がもともとあって屋根を支えていたことがわかります。手前の壁際に土を掘り残している部分があります。これは調理を行っていた竈(かまど)の跡です。崩れてしまって原形を留めていませんでしたが、粘土で作られていて、中には焼けた土や炭がたくさん詰まっていました。
掘立柱建物跡とは、地面に掘った柱穴に柱を立てて造った建物です。
柱穴は柱よりもかなり大きく掘られていますので、柱穴の大きさほど柱が太かったわけではありません。仲島遺跡の場合、倉庫として使われていたと考えられます。上記の写真には2棟分の倉庫の跡が写っています。手前の3×4=12個の柱穴が1棟分、後ろの3×3=9個の柱穴がもう1棟分にあたります。
このような竪穴住居や倉庫が集まって、古墳時代の仲島遺跡の集落は構成されていました。
古墳時代にまつわる出土品【仲島遺跡】
古墳時代の仲島遺跡の集落の跡からは日常使われていた土器(土師器と須恵器)の他に、いろいろな祭祀具(まじないの道具)も出土しています。
- 子持勾玉-1
子持勾玉(こもちまがたま)
滑石(かっせき)(蠟石(ろうせき)とも呼ばれる)という柔らかい石で作られています。基本的な形は勾玉ですが、背や腹に当たる部分にちょうど勾玉の子どものような突起が付いているので「子持勾玉」と呼びます。勾玉は身体につける装飾品ですが、子持勾玉は勾玉を模造して作った「石造模造品」というまじないに使われた道具の一種です。仲島遺跡の子持勾玉は下の部分が欠けていますが、本来は上下対称の形をしています。また、古いタイプの子持勾玉は厚手ですが、この子持勾玉は扁平でペラペラの作りです。これは退化したタイプといえます。
子持勾玉-2 |
子持勾玉-2は子持勾玉-1と同様、滑石で作られた石製模造品の一種です。 刀子(ナイフ)をまねて作られた、まじないに使う道具と考えられていました。 しかし他に類例がなく、現在では子持勾玉との一種であると考えられています。 |
土製勾玉(どせいまがたま)
土をこねて勾玉の形にしたまじないの道具です。子持勾玉とは形が違いますが、やはり装飾品ではなく「土製模造品」と分類されている遺物の一種です。
土製模造鏡(どせいもぞうきょう)
土製模造品の一種で、鏡をまねて作られています。指でつまみ上げて鈕(ちゅう(鏡に紐を通す部分))に当たる部分を作っているだけの簡単なものです。
他の時代にまつわる出土品【仲島遺跡】
人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)
人面墨書土器とは墨で人の顔を描いた土器のことをさします。大野城市では仲島遺跡の東端部、御笠川の氾濫原の砂の中から3点の土師器の人面墨書土器が見つかっていています。そのうち2点は丸底(まるぞこ)の土師器(はじき)の鉢、残りの1点は土師器の甕に書かれていました。
人面の意味
人面墨書土器は奈良時代から平安時代初めにかけて見られます。最も多く出土するのは奈良時代の都である平城京(へいじょうきょう)ですが、九州では仲島遺跡以外には、福岡市や佐賀市の出土例が知られています。いずれも多くが川や溝の中から出土しています。人面は疫病神(やくびょうがみ)を表現したものといわれ、病気になった人が息を吹き込み、川や溝に流したものと考えられています。人面墨書土器以外には人形や土馬などがあります。
当時の人間の心を探る貴重な資料です。
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御笠の森遺跡(山田地区周辺)
御笠の森遺跡は、山田2丁目にある御笠の森の周辺にひろがる遺跡で、戦国時代の終わりから江戸時代を中心とした集落が存在したことが分かっています。下記の写真の奥に見えるのが御笠の森です。
御笠の森遺跡で見つかった溝
調査では大きな溝と建物の跡が見つかりました。溝は幅が3.0~4.4m、深さ1.0~1.5mあります。溝は御笠の森の南側に位置し、1次調査と8次調査では溝のコーナーが見つかっています。溝は一辺が約70mの方形でると考えられており、溝の内側からは多くの建物の柱跡(ビット)が見つかっています。このことから御笠の森遺跡は方形に巡る溝を持つ集落であったと思われます。溝からは中国から輸入された陶磁器や唐津系の陶磁器、銅製の小柄の鞘やキセルなどが出土しました。
御笠の森遺跡の調査地点と見つかった溝(青い部分)
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御笠の森遺跡は移転前の山田村?
江戸時代終わり頃の地誌である『筑前国続風土記拾遺』の山田村の項によれば、「此村昔は御笠森の辺にあり、延宝のころ(1673~1681年)今の地に移せり」とあります。発掘調査では17世紀後半以降の遺物が出土せず、遺跡が御笠の森のそばに位置することから、文献の内容どおり、御笠の森遺跡は移転前の山田村の跡であることが分かっています。
下の写真は橋と思われる遺構を検出した時の物です。大きな溝に幅約30cm、長さ70~150cmの細長い溝が直角に交わっています。これを復元すると、幅が2.0~2.6m、長さが6.0~6.4mの橋で、集落の南西隅に位置しています。また橋の位置する場所ですが、ちょうど御笠の森の横を通って北側に抜ける道に面しています。この道は明治時代の地図にも表れており、古くから村や町をむすぶ場所であることを考えると、御笠の森の横を通る道に面して入り口を設けていることは、まったくの偶然ではないと思われます。もしかしたら、この道は明治時代よりさらに古い戦国時代からある道なのかもしれません。
御笠の森は奈良時代に編纂された『日本書紀』にも登場し、昭和の初めまでは大きな森でしたが、現在は周辺の宅地化が進み、小さな森になっています。山田村が移転する以前、ここには神社や天神様が祀られており、山田村にとって大切な場所であったようです。この御笠の森の南側にあった古い山田村は、一辺70mもの溝を周囲に巡らせていました。溝の範囲や大きさからも、一つの村で作業を完成させるのは大変だったろうと思われます。戦国時代の終わりごろ、大きな溝を周囲に巡らせた村は御笠の森遺跡の他にも全国各地で見つかっています。ちょうどそのころ、全国各地では戦いが繰り広げられていました。もしかしたら、溝は戦いから村を守るために掘ったものとか、溝で囲まれた村自体が武士の「館」であったなど色々な可能性があります。
今後調査と研究が進めば、溝を持つ村の内容がより明らかになるでしょう。
第6回 地名のはじまり探検隊 ~山田編~