大野城市の遺跡 Bエリア
更新日:2023年09月27日
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8.持田ヶ浦古墳群 | |
9.御陵遺跡 | 御陵(ごりょう)古墳群1 |
御陵前ノ椽(ごりょうまえのえん)遺跡 | |
10.御陵脇遺跡 | |
11.塚口遺跡 | |
12.大谷口遺跡 | |
13.唐山遺跡群 | |
14.唐山古城跡 | 唐山城 |
15.盗原古墳群 | |
16.上唐山遺跡 | |
17.善一田遺跡群 | |
18.王城山遺跡群 | |
19.古野遺跡群 | 経塚・経筒(古野遺跡第4次調査)(PDF:1210KB) |
20.原口遺跡 | |
21.ヒケシマ遺跡 | |
22.中・寺尾遺跡 | 中寺尾遺跡(PDF:249KB) |
23.森園遺跡 | |
24.松葉園遺跡 | 松葉園(まつばぞの)遺跡 |
25.御手洗遺跡 | |
26.花園遺跡 | |
27.薬師の森遺跡 | |
28.ウド遺跡群 | |
29.銀山古墳群 | |
30.原口古墳群 | |
31.榎町遺跡 |
唐山古城跡(乙金東地区)
概要
大野城市と宇美町の境(北側)に井野山(標高236m、大野城市側の呼称は唐山)があります。現在は、明確なお城の痕跡は残っていませんが、井野山には唐山城という戦国時代のお城がありました。井野山頂上付近(東側)の城跡が主郭と考えられており、西に約700m離れた大野城市内のところに西城跡があります。
唐山城は、豊後国(現在の大分県)を中心に、当時、北部九州を支配していた戦国大名である大友氏の記録に登場し、「賀良山城」や「嘉良山城」とも記述されています。
築城主は、大友氏方の記録『豊前覚書(ぶぜんおぼえがき)』では、1568(永禄11)年に筥崎宮座主麟清(大友宗麟の従兄弟)が、岩屋城の高橋鑑種(たかはしあきたね)の軍勢に備えるため、城を築城したとあります。
しかし、江戸時代の記録である『筑前町村書上帳』所収「宇美八幡宮大宮司神武氏由緒書」には、宇美八幡宮大宮司の神武秀宗が、1574(天正2)年に築城し、普段は、安河内備前と桜木主水の両人を物頭とし、従者数百人が詰めていたことが記されています。また、別の古文書には、神武秀宗の先代である神武秀良が築城したとも記述されています。この他の「筑前国続風土記」や「筑前国続風土記拾遺」にも、時の宇美八幡宮大宮司神武氏の居城であったと記述されています。いずれにしても、江戸時代の記録では、宇美八幡宮大宮司を務めた神武氏の居城であったとされています。
唐山城が、筥崎宮座主か宇美宮大宮司か、どちらが最初に城として構築したのかは文献によって異なっていますが、双方とも大友氏に属していますので、大友氏方の城であったと考えられます。
- 井野山(標高236m、大野城市側の呼称は唐山)
唐山城が築城された経緯は?
唐山城が最初に史料に現れるのは1568(永禄11)年のことです。
1550年代から大友氏と毛利氏は、筑前(福岡県)と豊前(福岡県東部及び大分県の北西部)を巡って度々戦いを繰り返していました。
一度は足利義輝(室町幕府第13代将軍)の仲介によって講和したものの、1567年(永禄10年)に秋月種実が毛利元就の支援を得て旧領回復の兵を挙げたことから、再び戦争状態へと逆戻りします。
当時の筑前(福岡県)は豊後(大分県)の戦国大名である大友氏が治めていましたが、博多を狙う秋月・毛利勢に呼応した大友氏の重臣や豪族が一斉に反旗をひるがえします。
そういった中、岩屋城(太宰府市)を預かる重臣・高橋鑑種(あきたね)の寝返りによって、大友勢の軍は太宰府・水城周辺の土地を通行できなくなります。(図1)
図1.1568年の状況
(青が大友氏、赤が敵対勢力)
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北の毛利氏、南の高橋鑑種に対抗し、大友氏の本拠である豊後と博多をつなぐルートを確保するために築かれたのが唐山城です。筥崎宮の座主が守将として配置され、1,500の兵が駐屯しました。
一連の騒動は大友氏が毛利氏を撃退する形で収まりますが、その後1578(天正6)年に薩摩(鹿児島県)の島津氏に大敗したことで、大友氏の領内は再び重臣や豪族の反乱に見舞われます。(図2)
図2.1578年以降の状況
(青が大友氏、赤が敵対勢力)
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そういった中、筑前では立花山城の戸次道雪(べっきどうせつ)が、岩山城では高橋紹運(たかはしじょううん)が孤立する状況になります。この時、唐山城が武士化していた宇美八幡宮の宮司による反乱の拠点となります。
宇美八幡宮は唐山城の眼下にあるため、同じ八幡宮の筥崎宮座主に見下ろされるのが不快だったのかもしれません。しかし反乱は鎮圧され、筥崎宮の座主には代替わりした戸次道雪の子が、戸次家の家老が守将となりました。この守将の身分の高さと唐山城の重要性が、当時四面楚歌に陥っていた大友氏の連携を確保したいという思惑を物語っています。
唐山城が廃城となった時期は?
唐山城が廃城となった時期は判明していませんが、1586(天正14)年の島津氏による岩屋城陥落後、翌年の豊臣秀吉による九州統一によって立花山城と岩屋城をつなぐ役割を失い、城としての役割を終えたと考えられています。
このように、史料に度々現れ、大友氏の苦境を支えた唐山城ですが、石垣や堀、土塁といった城らしい痕跡は確認されていません。もともと城としての重要性のわりには大規模な工事がなされていなかったようです。
しかし、現在展望台として整備された唐山城跡に立つと、西に福岡平野、南に水城、東に宇美平野、北に立花山、さらには北西に博多・志賀島・玄界灘を見渡すことができる、非常に眺望に優れた拠点であることが分かります。なにより、眼下に現代九州の大動脈とも言える九州自動車道を見下ろすことができ、重要な峠を見張る城であったことが実感できます。